県は真摯に、水俣病被害の実態と向き合え!

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 9月7日、特措法判定結果の県の集計結果に関する知事の発言に対して強く抗議し、水俣病被害の全容解明と被害者救済に全力で取り組むよう求める申し入れを行いました(申し入れ全文はホームページをご覧ください)。
 9月3日の定例会見の中で蒲島知事は、県が特措法の中で救済対象と判定した方々の16.5%が特措法対象地域外であったという事実に関し「汚染の広がりを科学的に示すものではない」、「あくまでも特措法による救済は、公健法で水俣病と認められないものの、・・・・地域の紛争を終結させるための政治的救済策である」などと発言。看過できない、許しがたい発言です。
 この発言で思い起こすのは2004年の関西訴訟最高裁判決です。
 1995年、政治決着(和解)によって水俣病問題の解決を図ろうと和解案が示され、全国7か所の地裁、高裁で争われていた国家賠償訴訟はすべて取り下げられました。しかし関西訴訟の原告患者らは和解案を受け入れず、あくまで裁判での決着を求めました。
 なぜ彼らは判決を求めたのでしょうか。91年の中央公害対策審議会水俣病対策についての答申ではこう書かれています。「水俣病が発生した地域においては水俣病とは診断されないものの、水俣病にも見られる四肢末端の感覚障害を有するもので、その症候をもって水俣病ではないかという疑いを持ち、深刻な不安を持つに至っている者が少なからず存在しており」、「このようなものが自ら水俣病であるまたはその可能性があると考える事は無理からぬ理由が」あると。そうして95年の政治決着では、これらのものに対し、水俣病とは認めない一方で、一時金と一定の医療給付をおこなう事で、水俣病問題の幕引きをはかったのです。
 関西訴訟原告の皆さんは、水俣病の症状を訴えながらも長い期間放置され、場合によってはニセ患者扱いまでされながら、最終的にわずかの金銭で、しかもあくまで水俣病患者として認めないという扱いを受け入れることは絶対にできなかったのです。
 もちろん、和解案を受け入れた人々ももろ手を挙げて歓迎したわけではありません。「生きているうちに救済を」と苦渋の決断をせまられ、政治決着にのみこまれたのです。
 関西訴訟最高裁判決は、「公健法の認定基準である52年判断条件こそが正しい医学的経験則である」とする国の主張を排斥し、52年判断条件が誤っている(採用できない)ことを明らかにしました。原告患者らの積年の思いにこたえ、彼らが水俣病であるということを認めたのです。水俣病の発生と拡大の防止責任を果たさず、そればかりか被害の実態と向き合わず、患者を放置してきた国と県が厳しく断罪された瞬間でした。
 あらためて今回の蒲島知事の発言をみると、91年答申とまったく重なる内容となっています。最高裁判決で断罪された見解をいまだに引きずっているのかと、怒りを禁じえません。いまだ、知事がこういった認識であるならば、「あたう限りの救済」などとうていできるはずがないではありませんか。
 ちなみに、2013年12月の記者会見で、蒲島知事が述べた水俣病に対する見解(抜粋)を紹介します。「昭和30年代、国と県の初動がいかに大事であったかを、私は今、知事として痛感しております。・・・私たち行政を担うものも、被害拡大を防げなかった責任を自覚し、水俣病の影響を受けたすべての方々に寄り添い続けなければなりません。さらには、特措法やこれまでの政治決着に何とか応じてくださった方々の思いも、決して忘れてはならないと思っております」。
 知事の思いはどこにいってしまったのでしょうか。